ニュースタイムズ
2008.02.03(日) 長崎新聞
鉄道存続 郷土の願い

◆「島原半島を未来につなぐ会」代表世話人 泉川欣一さん(67)


 島原半島南部を走る島原鉄道南線は3月限りでの廃止が予定されている。赤字が続き、「やむなし」の空気が地元でさえ広がっていた。そんな中、昨年12月に発足した「島原半島を未来につなぐ会」は、存続を求める署名活動に取り組んできた。

 南島原市深江町にある泉川病院の理事長兼院長。12診療科120床で、島原半島南部の中核病院に位置づけられる総合病院だ。米国留学の経験を持つ呼吸器感染症のエキスパートとして、聴診器を持つ毎日を送る。

 分刻みの忙しさの中、存続運動に立ち上がるきっかけとなったのは、ある高齢患者のつぶやきだった。「鉄道がなくなれば、何で病院に通えばよかとじゃろうか」

 車社会に取り残されたお年寄りたちの困惑を痛感した。いま車を運転できる人たちも、やがては交通弱者になる。そうした人たちを救う地域交通網のビジョンを持たないまま、ずるずると廃止の道を追認する行政への不信感もあった。

 昨年暮れからの会の呼びかけには、1カ月で4万人近くの署名が寄せられた。島原半島16万人口の4分の1の賛同を得た計算だ。予想外の反響だった。同時に上意下達の風土の中で、もの言えぬ住民の多さも痛感した。

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 90年11月からの雲仙・普賢岳の噴火災害で、病院は存亡の危機に立たされた。

 すべての入院患者を危険のない島原半島内の病院に移送し、1カ月間の閉鎖に踏み切った。窓を赤く染める火砕流を尻目に、1人で院長室に泊まり込み、けが人や救急患者の診察に当たった。

 同じころ、南線は火砕流と土石流で寸断され、運輸省(現国土交通省)から「廃線必至」と見られていた。

 そこからよみがえり、97年4月1日に全線復旧を果たした。その時の感激を今も忘れない。「おどんたち(自分たち)の鉄道を守ろう」と団結した住民と自治体、経営陣の努力のたまものだった。

 だが、それから11年、今では通学生でにぎわう朝を除けば、1両編成の車内に人影はまばらだ。
 380人の病院職員には月一度の鉄道通勤を呼びかけ、通勤費補助も検討している。「これまで鉄道の大切さを顧みてこなかった罪滅ぼし」という思いに加え、役所勤めの人たちにも鉄道を利用してほしいとの願いも込めている。
 
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 島鉄はこの5月、創立100年を迎える。

 日本の鉄道黎明(れいめい)期に新橋~横浜間を走った英国製の1号機関車が、島鉄に払い下げられ、1930(昭和5)年まで20年間、島原半島を走っていた。同年、交通博物館(現鉄道博物館)に買い上げが決まった時、創業者で当時の社長、植木元太郎は「惜別感無量」と刻んだペナントを付けて送り出したと伝えられる。

 自身は高校時代、旧深江町から島原市まで汽車で通った。まだ蒸気機関車が先導していた。坂道にさしかかると歩くほどの速度に落ちた。先輩たちからは、客車を降ろされて全員で後押しをさせられたという話も聞いた。みんなが鉄道を必要としていた牧歌的時代だった。
 「郷土の先達が残した社会資本を、自分たちの世代でつぶしてはならない」。存続運動を支えているのは、そんな使命感だ。(中山尭)