(2008年3月17日 読売新聞
語り継がれる人びと(読売新聞2007の記事)
宮崎康平…島原に夢を描きながら(長崎県島原市)
島原駅の玄関には赤子を背負った子守娘の銅像が建っていた。
哀愁に満ちた島原の子守歌はここを走る島原鉄道の常務を務めていた宮崎康平の作である。
宮崎康平は1917年(大正6年)南高来郡杉谷村(現島原市)生まれ。本名は懋(つとむ)である。中学時代にはスポーツや文学に才能を発揮していた。37年に早稲田大学国文科に入学し、演劇仲間の森繁久弥らと親交を深めた。40年、卒業して東宝文芸課に勤務するが、まもなく兄の死によって家業の土建業を継ぐために帰郷。47年から島原鉄道の常務取締役を務めたが、学生時代から悪化していた眼病が進み、50年には完全に失明した。
鉄道会社を率いるまとめ役として活躍しながらも、宮崎は文才を発揮する。失明や妻に逃げられた心の痛手ももの悲しい子守歌に反映されていると伝える。
だが、宮崎は夢を描きながら生きた。「ほら吹き康平」などと皮肉る人もいたが、鉄道を使って島原の良さを天皇に見ていただこうとお召し列車の招致を成功させ、半島を酪農で豊かにしようとオーストラリアから乳牛を輸入。諫早水害からの復興、無農薬有機栽培の実践など、アイデアを次々に実現。57年に結婚し、宮崎の目となりペンとなった和子夫人も「康平とともに暮らした25年間は本当に面白かった。一日たりとも退屈することはなかったような気がする」と語っている。
65年から「九州文学」に掲載した「まぼろしの邪馬台国」は空前のヒットとなり、第1回吉川英治賞を夫婦で受賞した。
来年、島原鉄道の島原外港―加津佐駅間が廃線となる。宮崎の思い出深い島原の風景がまた一つ消えてゆく。