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雲仙・普賢岳の大火砕流から丸19年を迎えた3日、島原市では、多くの市民が当時に思いをはせ、犠牲者に祈りをささげた。小中学校では集会が開かれ、噴火終息後に生まれた子供たちは災害を語り継ぐことを誓った。
雲に包まれたあの日とはうって変わり、初夏の強い日差しを浴びた普賢岳には、「平成新山」と命名された溶岩ドームがはっきりと見えた。
多くの被災者が移住した仁田町にある「犠牲者追悼之碑」前には朝から献花台が設けられ、市民らが慰霊の花を手向けた。自宅が被災した近くの園田元市さん(83)は「当時は亡くなった消防団員の葬式が毎日のように続いた。今でも忘れられません」と声を震わせた。
献花した横田修一郎市長は「亡くなった消防団員には知り合いもおり、個人的にも一生忘れることができない日。被災を伝えていくことが私たちの使命です」と話した。
犠牲となった消防団員が詰め所としていた北上木場町の農業研修所跡にも遺族らが訪ね、線香を供えた。
亡くなった市消防団副団長の谷口武さん(当時41歳)の義姉、松本利美さん(63)(島原市新湊)は、「ここでおじいちゃんが亡くなったんだよ」などと、一緒に来た武さんの孫(4)に語りかけていた。「二度と犠牲者を出さないためにも、自然災害の怖さを伝え続けます」と松本さん。
当時の島原市長だった鐘ヶ江管一さん(79)も訪れ、火砕流発生時刻の午後4時8分、消防団員の遺族らと黙とう。「大変な19年間だったでしょう。ただ、(亡くなった消防団員が)天国でお守りになっているから、こうして皆さんもお参りできるのですよ」と語りかけると、遺族からすすり泣きが漏れた。
第四小(永石一成校長、178人)では「6・3 いのりの日」集会が開かれ、児童が火砕流の悲惨さを学んだ。
災害を学習した4年生が火砕流や被災状況について発表。家族らに聞くなどして学んだ災害時のことを寸劇を交えながら再現し、「命と絆(きずな)、感謝の気持ちを大切にしよう」と訴えた。
その後、当時、市内の第二小に勤務していた永石校長が自らの被災体験を基にした紙芝居を披露。避難所に連れて行くことが出来ずに愛犬を残したことを話すと、涙をぬぐう児童もいた。
(2010年6月4日 読売新聞)
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